人体解剖図を毎日眺めて、目の前の人間をただの肉と骨の袋だと認識し直すだけでいいんです。
多くの人は誰かに認められたいとか、誰かに褒められたいとか、そういった他人の目線に縛られて生きているようですが、それは相手の中に自分を評価する心があると思い込んでいるから苦しくなるのです。
ぼくは昔から不思議だったのですが、どうして皆さんは自分と同じように食事をして排泄をしてやがて腐って土に還るだけの他人に、そこまでの価値を感じられるのでしょうか。
承認欲求がない人になりたいと願うのであれば、精神論で心を鍛えようとするのは間違っています。
心なんて曖昧なものに頼るから失敗するのです。
必要なのは物理的な事実だけを見つめる冷めた視線を持つことで、そのために一番手っ取り早いのが、人間の皮を一枚剥いだ下にある肉や血管の構造を頭に叩き込んでおくことなのです。
たとえば職場で上司があなたに向かって怒鳴り散らしている場面を想像してみてください。
普通なら怖いとか、嫌われたくないとか、自分の評価が下がるとか、そういった感情が胸のあたりで黒く渦巻いて息ができなくなるかもしれません。
心臓が早鐘を打って、冷たい汗が背中を伝い、指先が小さく震えるのがわかるでしょう。でもぼくは違います。
ぼくはその上司の顔を見ながら、ああ、今は眉間のあたりの肉がぎゅっと縮まっているなとか、口の端を引っ張り上げる筋がひきつって震えているなとか、首の横にある太い血管が浮き出て血液がすごい速さで流れているんだろうなとか、そういったことだけを観察しています。
そうやって相手の顔を動く肉の塊として見つめていると、そこにあったはずの怒りや感情という意味がすべて剥がれ落ちて、ただの物理現象にしか見えなくなってくるのです。
まるで壊れた機械が音を立てているのと同じで、そこには何の恐怖も不安もありません。ただ、赤黒い顔をした肉の塊が、必死に空気を震わせているだけの滑稽な光景が広がっているだけです。
承認欲求がないと言われる人たちは、多かれ少なかれこの視点を持っているものです。彼らは他人を冷たいほど客観的に見ています。
相手がどんなに感情的になっていても、あるいはどんなに素晴らしい言葉を並べ立てていても、それが電気信号による脳の反応と、それに連動した筋肉の動きでしかないことをどこかで理解しているのです。だから彼らの瞳はいつも静かで、湖の水面のように凪いでいます。
誰かに嫌われることへの恐怖よりも、目の前の人間が生物としてどのように機能しているかという興味の方が勝っているから、他人の評価という実体のないものに振り回されることがないのです。
ぼくがあなたにお勧めするのは、毎日ほんの少しの時間でいいので、皮膚の下にある肉の図を見て、人間の顔というものが実はたくさんの赤い繊維の束でできていることを脳に焼き付けることです。そうすれば、次に誰かと対面したとき、相手の笑顔も怒り顔も、すべてが単なる肉の収縮運動に見えてくるはずです。
その感覚を一度でも味わうと、もう元の世界には戻れません。他人の視線が気にならなくなるというのは、言い換えれば他人が自分と同じ人間には見えなくなるということです。休日のカフェで隣の席のカップルが愛を語らっていても、電車の中で誰かが不機嫌そうに舌打ちをしても、それらがすべて背景の一部、あるいは水槽の中で泳ぐ魚の群れと同じような、ただの現象に変わります。あなたは透明なカプセルの中に守られているような、完全な静寂と安心感に包まれることになるでしょう。誰かがあなたをどう思おうと、それは向こう側の世界で起きている些細な肉の反応にすぎず、こちらの平穏を脅かすことは決してありません。
寂しいと思いますか。
それとも怖いと思いますか。
でもそれが、あなたがなりたいと願った、誰の目も気にせずに生きるということの正体なのです。
承認欲求を捨てるということは、人間としての温かい交流を捨てて、冷たくて静かな観察者になることと同義なのですから、その覚悟を持って解剖図のページをめくってみてください。