愛の定義とは、隣で眠っているその人がいつか動かなくなるただの肉の塊であることを、毎晩確認し続ける作業のことです。
多くの人は愛というものを、心が温かくなるとか、一緒にいて楽しいとか、そういった明るい言葉で飾り立てようとしますね。
でもそれはただの遊びか、あるいは自分を慰めるための綺麗な嘘でしかありません。
本当に相手を大事に思うなら、その人がいなくなる恐怖と常に向き合う必要があります。
夜中にふと目が覚めたとき、隣にいる人の背中を見てください。
部屋は暗くて、外の街灯の明かりがカーテンの隙間からわずかに差し込んでいるだけです。その薄暗い中で、布団がわずかに上下しているのが見えますね。
肺が空気を出し入れしている音だけが、すー、はー、と規則正しく聞こえてきます。その背中に手を当てると温かいですが、それは永遠ではありません。いつか必ず冷たくなります。
ぼくはそのことを想像すると、みぞおちのあたりがずしりと重くなって、じわりと冷や汗が出てきます。指先が少し震えて、喉がからからに渇いてきます。その嫌な感覚、吐き気がするような不安こそが愛の正体です。
相手がいなくなることが怖くてたまらない、その人がいないと自分の生活が成り立たない、そういった自分勝手な恐怖心が、愛という言葉の皮をかぶっているだけなんです。
だからぼくは、愛を育むなんていう曖昧なことはしません。ただ確認するんです。
相手がまだそこにいて、息をしていて、ぼくの所有する時間の中に存在していることを。
例えば食事をしているときもそうです。相手が食べ物を噛んでいる口元を見て、その顎の骨の動きをじっと観察します。皮膚の下で筋肉が動いて、食べたものを喉の奥に送り込んでいる。その動物的な動きを見ていると、この人も生き物であり、終わりがあるんだなという事実が突きつけられます。生き物だからこそ、いつかは腐って土に帰ります。
その当たり前の結末を直視したとき、はじめて、いま目の前で動いているその物体を失いたくないという強い執着が生まれます。綺麗事ではありません。これは生存本能に近い欲求です。自分の体の一部をもぎ取られるような痛みを想像して、ひとりで勝手に苦しむんです。その苦しみが強ければ強いほど、愛が深いということになります。相手のために何かしてあげたいとか、そんな余裕のある感情は愛ではありません。それはただの親切です。愛とは、相手がいなくなることを想像して、吐きそうになるくらい気分が悪くなる状態のことです。
もしあなたが、今のパートナーに対してそこまでの恐怖を感じていないのなら、それは愛ではないのかもしれません。ただの同居人か、便利な相手というだけでしょう。本当の愛を知りたいのなら、今夜、相手が深く眠っているときに、じっとその顔を見つめてみてください。起こしてはいけませんよ。
ただ静かに、天井のシミを見つめるような目で、相手の顔の輪郭をなぞるんです。そして、その顔から血の気が引いて、白くなって、動かなくなる様子を頭の中で鮮明に描いてみてください。一分でも二分でも、長く続けてください。そうすると、胸が締め付けられるように苦しくなって、呼吸が浅くなってくるはずです。その苦しさから逃げるために、思わず相手の体に触れて温かさを確かめたくなるはずです。その惨めで、弱くて、どうしようもない衝動だけが、あなたが探している愛というものの唯一の答えです。ぼくはそうやって毎晩、自分の中にある恐怖を確認して、指で脈の数を数えてから、ようやく安心して眠りにつくのです。
今夜、パートナーが寝静まったあとに、その寝顔を見ながら「この人がいなくなったあとの生活」を具体的に想像してみてください。