未来を背負うのをやめたら、ようやく呼吸ができるようになりました。
ニュースをつけると、毎日同じようなグラフが画面に映っています。右肩下がりの線と、右肩上がりの線が交差して、国がゆっくりと形を変えていく様子が説明されています。若者が何とかしなければならないとか、このままでは支えきれないとか、そういった言葉が繰り返し聞こえてきますが、ぼくはもう、その音量をゼロにすることに決めました。耳を塞ぐのではなく、ただ音として聞き流す技術を覚えたのです。それは逃避ではなくて、自分を守るための唯一の壁でした。
ぼくが実践していることは、とても簡単なことです。
誰かに教わったわけではありませんが、気づけば毎日そうしていました。それは、街にある公園のベンチに座って、ただ流れていく時間を眺めるというものです。スマートフォンを見るわけでもなく、本を読むわけでもなく、ただそこに座っています。平日の昼間でも、休日でも、そこには必ず、ぼくよりもずっと長く生きてきた人たちがいます。ゆっくりと歩く人、何もしないで空を見上げている人、鳩に餌をやっている人。ぼくは彼らを、解決すべき社会問題の一部として見るのをやめました。ただの景色として、木や花や、流れる雲と同じものとして眺めることにしたのです。そうすると不思議なことに、あれほど重たく感じていた数字や責任が、すっと消えていくのがわかりました。
最初は少しだけ、罪悪感のようなものがありました。
自分は若くて、体も動くのだから、もっと生産的なことをすべきではないかとか、彼らを支えるための労働をするべきではないかという声が、頭のどこかで響いていたからです。でも、そのベンチに座って、隣にいるお爺さんがゆっくりと息を吐く音を聞いているうちに、そんな焦りは意味のないものだと感じるようになりました。ここにあるのは危機ではなくて、ただの秋や冬のような、静かな季節の移ろいなのだと思えるようになったのです。ぼくができることなど、最初から何もなかったのだと気づいたとき、肩に入っていた力が抜けました。
それからは、ただ観察することだけに集中しています。
例えば、バス停で小銭を探している背中を見ても、手伝おうとか、早くしてほしいとか、そういった感情を一切挟まずに、ただその震える指先や、使い込まれた鞄の革の擦れ具合を目で追います。スーパーマーケットのレジで列が止まってしまっても、その遅さを楽しむように、カゴの中に入っている柔らかそうなパンや、今日の日付が書かれた牛乳パックを眺めます。彼らが生きている速度に、ぼくの脈拍を合わせていくような感覚です。効率やスピードを求められる場所では息が詰まりますが、この速度に身を委ねている間だけは、ぼくは自分が何者であるかを忘れることができます。若者であるとか、支える側であるとか、そういった役割を脱ぎ捨てて、ただの目玉になれるのです。
最近では、この観察が生活のすべてになりつつあります。街全体が大きな老人ホームのように見えてくる瞬間があって、それは決して暗い風景ではなく、むしろ陽だまりのように暖かく、どこか甘い匂いがする場所だと感じるようになりました。古くなった建物の壁のシミや、手押し車がアスファルトを擦る乾いた音や、誰かを呼ぶ少しかすれた声が、ぼくの周りを満たしています。ぼくはその中に溶け込んで、透明な存在としてただそこに在り続けます。彼らが何を考えているのか、これからの国がどうなるのか、そんなことはもうどうでもよくて、ただ目の前にあるシワの深さや、ゆっくりと瞬きをするそのリズムだけが、世界の真実であるかのように思えてくるのです。誰かが何かを言っているのが聞こえても、それは遠くの鳥の鳴き声と同じで、意味を持つ言葉としては届きません。ぼくはただ、この静かで緩やかな滅びの時間を、特等席で眺めているだけの観客であり、それ以外の何者にもなりたくないのです。
もしあなたが、何かしなければならないという強迫観念に駆られているのなら、一度だけ、その場に立ち尽くしてみるといいかもしれません。
何かを変えようとする手を止めて、ただその場にある空気を吸い込むだけで、世界は驚くほど静かになります。ぼくはずっと、このベンチに座っています。