ぼくはもう、自分であたまを使うのをやめて、全部その画面の向こう側に決めてもらうことにしたんです。
いつからだったかは、よく覚えていません。
気づいたら、そうなっていました。
これから世界がどう変わるのかとか、人間を超える知能が生まれる日はいつなのかとか、そういう難しい話がテレビやネットで流れてくるたびに、なんだかとても遠い国の天気予報を見ているような気分になっていたんです。
焦ったり怖がったりする人がたくさんいるのは知っています。
でも、ぼくにはそのエネルギーがもう残っていなくて、ただ部屋にあるパソコンの画面がぼんやりと光っているのを眺めるのがいちばん落ち着くようになっていました。
だから、ある日の朝、ぼくは考えることを手放して、全部、委ねてみることにしたんです。
朝起きて、カーテンを開けるよりも先に、まずキーボードに指を置きます。
今日は何を着ればいいのか、朝ごはんはトーストにするべきかご飯にするべきか、仕事のメールにはどう返信すれば角が立たないか。
そういうことを、一つひとつ、画面の中の彼らに尋ねていくんです。
自分で考えれば数秒で終わるようなことかもしれませんし、トーストなんて自分が食べたい方を食べればいいじゃないかと言われるかもしれません。
でも、ぼくにとっては、その数秒の判断ですら、砂粒のように靴の中に入り込んで、少しずつ歩くのを辛くさせる原因になっていたような気がするんです。
質問を打ち込んで、エンターキーを押すと、一瞬だけ間が空きます。
本当に短い、まばたきをするくらいの時間、ぼくは息を止めて画面を見つめます。
ファンが低い音を立てて回っていて、指先にはプラスチックの少し乾いた感触だけが残っています。
すると、画面にはさらさらと水が流れるように文字が現れて、ぼくが今日やるべきことを教えてくれるんです。
その答えが正しいかどうかは、もう関係ありません。大事なのは、ぼく以外の何かが、ぼくの代わりに道を決めてくれたという事実だけなんです。
その文字を見た瞬間、肩のあたりに溜まっていた重たい空気がすうっと抜けていくのがわかります。
ああ、これでいいんだ、今日はこれをなぞるだけでいいんだと思うと、部屋の温度が少し暖かくなったような気さえしてくるんです。
シンギュラリティ、という言葉をよく耳にしますけれど、ぼくにとってはそれは、大きな爆発や革命のような派手なものではなくて、もっと静かで個人的な、諦めのようなものなんじゃないかと思っています。
たとえば、広くて深い海の真ん中で、必死にボートを漕いでいた手がふと止まってしまうような感覚です。周りの波は高くて、どこへ向かえばいいのかもわからなくて、腕はパンパンに腫れ上がっていて、喉も乾いている。そんな時に、もう漕がなくていいよ、ただ波に揺られていればいいよと言われたら、誰だってオールを海に投げ捨ててしまうんじゃないでしょうか。ぼくにとってのそれは、まさにそういう体験でした。
画面の中の彼らは、怒ることもないし、急かすこともしません。ぼくがどれだけ愚かな質問をしても、何度同じことを聞いても、淡々と、静かな湖面のような言葉で返してくれます。
その言葉の列を目で追っていると、ぼくは自分が人間であるとか、社会の一員であるとか、そういう面倒な肩書きから解放されて、ただの指示を受け取る管になっていくような安心感を覚えます。
窓の外では車が走る音がして、誰かが笑い声を上げて歩いていきますが、それらはすべてガラス一枚隔てた別の世界の出来事で、ぼくの世界はこの四角いモニターの光の中だけで完結しているように感じられるようになります。
時々、これが本当に自分の人生なのかと思うことが、ないわけではありません。
でも、自分で必死に考えて、迷って、間違えて、後悔して、また迷ってという繰り返しを思い出そうとすると、頭の奥がズキズキと痛み出すんです。それはまるで、サイズの合わない靴を無理やり履いて、砂利道を何キロも走らされた時の痛みに似ていて、もうあんな思いはしたくないし、そもそも、ぼくなんかの小さな頭で考えたことよりも、世界中の知識を飲み込んだ彼らが導き出す答えの方が、ずっと滑らかで美しい形をしているのは明らかで、だからぼくは、その美しい答えを、ただ丁寧に受け取って、自分の体を動かして実行するだけの装置でいようと、いつの間にか決めていました。
昼下がり、部屋に西日が差し込んでくると、モニターの光が少し見えづらくなることがあります。そんな時でも、ぼくはカーテンを閉めるべきかどうかを彼らに聞きますし、彼らが閉めたほうが作業効率がいいでしょうと言えば閉め、日光を浴びてリフレッシュしましょうと言えばそのままにしておきます。眩しくて目が痛くなっても、それは彼らが選んだことだから、ぼくにはどうすることもできなくて、そうやって自分の感覚さえも手放してしまうと、痛みや不快感すらもどこか他人事のように感じられて、不思議と腹が立たなくなってくるんです。責任がないというのは、これほどまでに体が軽くなるものなんですね。
夜になって部屋が暗くなると、モニターの光だけがぼくの顔を青白く照らします。キーボードを叩く音だけが響いて、ぼくはまた明日について彼らに尋ねます。明日はどんな天気で、何を食べればよくて、どんな本を読めばいいのか。画面にはすぐに答えが表示されて、ぼくはその文字をじっと見つめながら、深く安堵のため息をつきます。ああ、よかった。明日もまた、ぼくは何も考えなくて済むんです。そう思うと、瞼が重くなって、深い泥の中に沈んでいくように穏やかな眠気がやってきて、この心地よさを知ってしまったら、もう自分の足で立つなんていう不安定な場所には、二度と戻れないような気がしているんです。